最期まで生き抜く事を教えてくれた父の話

昨日4月30日は平成11年10月3日に亡くなった父の81歳の誕生日だった。

生前私は父にかなり酷く苦しめられた時期があったけど、それは色々な理由があって父が心を病んでしまったからだった。

元々はユーモアがあって人を笑わせるのが好きで、誰からも好かれる人だった。

 

父は家が貧しかった為、高校に行けずに中学を出て直ぐに横須賀の寿司屋の板前の修業に出た。

 

親孝行で弟2人と妹の面倒もよくみて家族の為に一生懸命働いた。

 

そして母と出逢って結婚。

 

独立して寿司屋を母と二人で営むようになり、その後私が生まれた。

 

 

 

ここまでは 普通だった。

 

ところが、人生の歯車はどこかで狂い出して、

 

ある時、父はヤクザになった‼️

(何でヤクザになったのかここでは省略💦)

 

 

 

これ↓は私の成人式の時に一緒に撮った写真!

 

 

ある組の組長との出会いが父の人生を変えて、

そしてその組長が長い懲役に行っている間、組を任される事になり、

父は裏街道を生きる選択をした。

 

 

 

 

 

現役時代の父と25歳頃の私

 

 

 

 

そして十数年一生懸命に任された組を守ってきたが、ある出来事がきっかけでヤクザから足を洗って放浪の旅に出た。

 

 

 

最初の数年は北や南に居場所が変わる度に私はチョコチョコ父に会いに行ったりしていたけど、私も娘を二人抱えてどん底生活を送るようになってだんだん疎遠になってしまった。

 

その間に父の心も体もどんどん壊れていった…。

 

父は私を散々泣かせて、困らせた。

 

日本刀を持って私の家に夜中に怒鳴り込んできて、パトカーに連行された事もあった。

 

苦しい時は「こんな父ならいない方がいい。早く死んで!」とその時は本気で何回も思った。

 

 

そんな頃に私と弟は父が肝臓ガンの末期だと知らされた。

父も医者に肝臓ガンだと告知されて(身内にこれ以上迷惑をかけて生きて行く位なら自分で自分を始末する方がマシだ。)と考えたらしく2回も自殺を図った。

 

でも、2回とも失敗に終わって運良く助かった。

 

とにかく死にたくても死ねなかった父はその時

「こんな俺でもまだ生きていてもいいのかな?」と私に聞いた。

 

私は 『お父さん、神様が最期まで生きろ!って言ってくれてるよ。最後の最後まで生きなくちゃダメだよ。』

そう言うと『わかったよ。』と何か吹っ切れたように頷いた。

 

 

父は肝臓ガンの末期で他の場所にも色々と転移していたので、かなり激痛だったと思うけど、一度も「痛い!」と言わなかった。

 

介護用のオムツも拒否して、歩く事ができなくてヨロヨロになっても部屋にある簡易トイレで自分一人で用を済ませた。

 

一度も弱音を吐かずに私との約束通り最期まで諦めなかった。

 

 

肝臓ガンになる前から逆流性食道炎を患い十年以上も味のある食べ物を食べる事ができなかった父だったけど、亡くなる2日前に、主治医から許可してもらい大好きだった鉄火巻きを一口だけ食べる事ができた。「美味しいな~」と本当に嬉しそうだった。

 

 

 

そして、突然 私に『お前、今幸せか?』と父は…。

 

私は思わず「幸せだよ」と言った。

 

その言葉を聞いて父は安心したように「そうか、それなら良かった。」と微笑んだ。

 

それが父と交わした最期の言葉だった。

 

父はその言葉の中に、「ごめんよ。ありがとう。」と私に伝えたかった気がした。

 

 

父が亡くなるまでの数ヶ月間、私と弟で父の看病ができた事は私と弟にとっても幸せだった。

 

 

あれほど私を苦しめた父の本当の心の中は孤独で淋しくて淋しくて…。

ただ、ただ、愛に飢えていたんだと思う。

 

 

父は歌が上手で大好きだったから、昨日は父の好きな歌を歌ってささやかな誕生日のお祝いをした👩🏻🎂🎤🎶🎉

 

『お父さん、又 一緒に歌おうね!』

 

 

 

 

 

 

父との話は『田村淳の地上波ではダメ!絶対!#18』YouTubeで開始から14分後から出ているのでまだ見ていない方は見てね〜

 

父や私に対する淳さんの言葉がとってもあったかかったよ👩🏻💜